抜毛症のはじまりについて、
記憶を辿ってみようと思います。
はじまりの日のこと、
残念ながら覚えていません。
きっと、
何気なく触っていた髪の毛を抜いた、
そして無意識に2本、3本、、となったのでしょうね。
多分、小学校低学年ごろ、
まだ色々と記憶に残る年齢ではなかった頃、
だったのかなと思います。
鮮明に記憶があるのは、
毎日たくさんの髪を抜いてしまい
その抜いた髪のやり場に困って、
ぐるぐるにテッシュにまとめて捨てたり、
見つからないように苦心していた場面です。
本を読みながら、
抜いた髪の毛を本のページにくっつけて
(毛根?でしょうか、先端に透明なものがついていますよね)
ページが髪の毛でいっぱい、
髪の毛でわさわさになるまで無心で。
無心なんですけど、
たぶん心?頭のどこかに気がついてる自分もいるんですけど、
止められなくて、ひたすらに抜き続ける。。
こんな日々でした。
小学校の入学式の写真は、
地毛でおかっぱ頭のわたしが写っています。
頭の前側を抜く様になり、
髪が薄くなった部分を隠すように後ろの髪を前に持ってきてピンで留める、
そんな朝の支度をいつしかするようになっていました。
髪なんて抜いてもいいことない、
けど、
抜くことをやめられない。
なんであんなに執着していたのか自分でも分かりません。
でも、ひたすらに抜き続けていました。
小学校でのわたしは、
どちらかというと優等生タイプ。
勉強も運動もそこそこにできて、
友だちもそれなりにいて、
学級委員もたびたびつとめるような、そんなタイプでした。
家庭環境は、相当に変っていました。
抜毛症は、心因性といわれているようですが、
もし本当にそうなら、
この家族の在り方が、子どもだった私の心では
受け止めきれない状態だった、
それがきっかけだったんだろう、そう思います。
でも、30年以上にわたり抜き続けるこのわたしの状況は
もはや家族との問題ではなく、
わたし自身の問題になっていると思っています。
抜くか抜かないか、
自分が選択できること。
子どものころはともかく、
心も身体も成長してからは、
誰のせいでもなく、自己判断。
家族のせいにして言い訳して
甘えるのは違う。
自分はなんてダメなんだ、
自分は欠陥品だ、
そう辛く思っていた時期もあります。
今は、誰かのせい、自分のせい、なんて
もうどうでもいい。
受け止めて生きて行く、それだけ。
って思っています。